世界じょうしき図鑑住まう

玄関で靴を脱ぐげんかんでくつをぬぐ日本の家の入口の習わし

日本の家では、玄関の土間で靴を脱ぎ、一段高い床に上がります。禅寺の言葉だった「玄関」が武家の家に広まり、江戸時代には庶民に許されなかったこと、明治以降の下駄箱、外国人が見た靴を脱ぐ習わしまで紹介します。

日本(全国)古くから(「玄関」の名は鎌倉時代末の記録〜)部屋と床今も続いている

概要

日本の家では、入口の「玄関」で靴を脱ぎ、一段高い床に上がるのがふつうです。玄関の外寄りの部分は「土間(どま)」と呼ばれ、靴のまま立つ場所です。床の端には「上がり框(あがりかまち)」という横木が渡され、ここから先は靴を脱いで歩きます。

辞典は、日本の住宅は履物を脱いで上がる形式なので、土間が欠かせないと説明しています。脱いだ靴は、玄関の下駄箱(靴箱)にしまいます。

歴史

禅寺の言葉だった「玄関」

「玄関」は、もとは仏教の禅宗の言葉で、禅の道に入る入口という意味でした。のちに、禅寺で住職が住む建物(方丈)の入口を指すようになりました。百科事典によると、鎌倉時代末の建長寺の伽藍の図に、方丈の入口を示す「玄関」の書き込みがあります。

武家の家の玄関

武家の住まいでは、式台(低い板敷き)のついた入口が玄関と呼ばれるようになりました。式台付きの土間を玄関と呼んだいちばん古い例は、1627年に改造された二条城二の丸御殿とされます。17世紀の中ごろには、客を迎える正面の玄関と、家族などが使う脇の玄関とを分ける形が定着しました。

江戸時代の庶民の家

江戸時代、庶民の家には原則として玄関を設けることが許されませんでした。役人を迎える庄屋などの家だけが玄関を構えられ、名主の家を「玄関」と呼ぶこともありました。町家では通り庭の入口の大戸が、農家では土間への入口が出入口でした。

玄関がなくても、土間で履物を脱いで床に上がる暮らしは同じでした。農家の土間は、かまどを置いて煮炊きをしたり、わら仕事や脱穀をしたりする広い作業場でもありました。

明治以降

明治維新で家づくりの禁令がなくなると、庶民の家にも玄関が設けられるようになりました。明治の末から大正には、小さな借家にも玄関がつくようになります。住宅用の下駄箱が使われだしたのも明治からと考えられています。江戸時代の商家では、上がり框の下の板を外して、中に履物を入れていました。

住まいの風景

明治の初めに来日したアメリカの動物学者E・S・モースは、1886年の本で東京の家の様子を描いています。日本人は畳の上で靴をはかず、下駄を家の外の踏み石か、入口の土間に脱いでいく、と書きました。靴のかかとは畳をへこませ、ときには突き破ってしまうとも記しています。

家に帰った人は、土間で履物を脱ぎ、框から床に上がります。客は玄関で迎えられ、用件のある人は脇の小部屋で待つ家もありました。モースは、玄関の床板を持ち上げると、下駄や傘、提灯をしまう場所になっている家を見ています。上野の近くの古い家では、泥のついた子どもの下駄と、塗りのよそ行きの下駄が並ぶ下駄箱を写生しました。

昭和の戦争が終わるまで、大きな家では、主人や客の「表玄関」、家族の「内玄関」、使用人の「勝手口」を使い分けていたとされます。

今の暮らしの中で

今は、農家の広い土間のような作業場は少なくなりました。都市の家では、入口の部分だけが土間になっていることが多いと辞典は説明しています。別の百科事典は、今の玄関を、水で洗える材料で仕上げた土間と、それより20〜25cmほど高い板張りの床とからなるものとして説明しています。

戦後には、身分に結びついた家のつくりを改めようと、「玄関」という呼び名をやめることも提案されました。それでも呼び名は残り、今もふつうに使われています。

よくある誤解・豆知識

昔は「げんか」とも読みました。 辞典によると、江戸時代には「げんか」と読まれることが多かったといいます。

上がり框には硬い木が使われます。 人が何度も上り下りして擦れるため、ヒノキやマツなどの硬い材が使われると事典は説明しています。

外国人も、この習わしにはすぐ従いました。 モースは、日本の習わしの中で、家に入るときに靴を脱ぐことは外国人がすぐに受け入れる数少ないものだと書いています。1853年に長崎に来たロシアの使節団の一員で、作家のゴンチャロフは、靴の上からはくオーバーシューズを使ったと伝わります。

参考文献

最終更新:2026-10-18

このページは、世界の住まいの習わしを、歴史と文化として紹介するものです。建築や設備についての助言ではありません。今も人が暮らす家や集落を訪ねるときは、住む人の暮らしを妨げないよう、現地の案内に従ってください。

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